函館市弁天町の「壁穴通り」は、函館山山麓の魚見坂から幸坂に至る海岸段丘の下を通る小路の通称である。かつて年季の入った長屋が多く、壁によく穴が開いていたという。そこにたたずむ「伴田米穀店」は、ピンク色のしゃれた建物である。
もともと大正5(1916)年に、内科が専門の「新栄医院」の診療所兼院長宅として建てられた。1、2階の窓の上にペディメント(三角破風)の装飾が施され、ひさし、胴蛇腹、軒蛇腹、窓周りは下見板張りの外壁と色彩を異にする。当時、函館で多く建てられた1階が和風、2階が洋風の「和洋折衷様式」の意匠ではない。寄棟・切妻屋根に上げ下げ窓と、洋風で統一されているのが個性的だ。
現所有者で米穀店の4代目、伴田次郎が生まれた1952年、伴田米穀店はこの建物の隣にあった。ワルガキだった次郎は、医院の庭の木の実をこっそり取っては隣家の「先生」に怒られた。そんな近所付き合いが建物との縁を結んだ。
ある日、先生に呼ばれて「また怒られるかな」と思いつつ行くと、「もう年だから医院を閉めようと思う。父さんと母さんに、建物を買わないか聞いてみてくれないか」と、思いがけない「お使い」を頼まれた。
その時は伴田家が買うに至らず、閉院後の1965年ごろ、建物はある会社経営者の手に渡る。その約10年後、この経営者の転居に伴い、もう一度、伴田家に購入のチャンスが来た。
伴田米穀店の初代、伴田徳一は新潟県北蒲原郡の出。函館で財をなした同郷の相馬家を頼って、明治時代の中ごろ、函館に移り住んだ。雑穀、電気炊飯器や雛人形なども商い、イカをのしいかに加工するサービスもして店は大いに繁盛した。
隣家である旧医院の2度目の購入話が来たのは1970年代半ば。2代目経営者で徳一の子虎男が購入を決め、その後22年間は人に貸した。96年、虎男の子で跡を継いだ次郎は妻紀子と、この建物に米穀店を移して住むことにした。店舗の老朽化もあるが、何より紀子が旧医院の洋風の外観と、対照的な和風の内装に引かれたのだった。
診察室と薬局があった正面の壁を取り払って店舗とし、1階奥の居間の床の間などは建築当時のまま残した。米などの商いの傍ら、紀子は1999年、店舗部分にバーを開く。そこに弁天町界隈のまちおこしにかかわる人びとが集い、その中心を担った次郎とともにイベントの相談などに花を咲かせてきた。
21層の「色の環」
建物が引きつけた人々はほかにもいる。函館市西部地区の古い木造の建物の外壁のペンキの層を紙やすりでこすりだし、「色の変遷」を調べて自分たちの街を見つめなおそう―。そんな調査を始めた市民団体のメンバーが米穀店を訪れたのは、地区でマンション乱立が問題化した1980年代の終わりだった。
「時層色環(じそうしきかん)」。この「元町倶楽部・函館の色彩文化を考える会」は、こすりだされて「環」のように浮かび上がるペンキの層をそう名付けた。1988~90年に伴田米穀店を含め85の建物の時層色環を分析して、時代の動きを背に「街の色」がダイナミックに変わったことを明らかにした。
明治後期から大正初期は白やグレー系のしゃれた色彩。大正半ばから昭和初期は塗料の供給が増え、黄土色や青、赤など華やかな「多色」の時代になる。戦時中は経済統制の下でペンキの入手も難しく暗い色が、戦後は進駐軍の影響か薄緑やピンクなどパステル調の明るい色が使われ、昭和後期はメリハリの利いた塗り分けが流行―。
伴田米穀店は調査物件の中で最も多い21層 が浮かび出た。青みがかった灰色、暗い黄緑、濃いアイボリー―。多くは新栄医院の時代の塗装だ。「常に人が集まる町医者だったから、外観には特に気をつかっていたようだね」と次郎は語る。
調査当時、薄い緑色だった米穀店の外壁は、2000年に2度目となる薄いピンク色に塗り替えられた。重なる色は、人が重ねた歴史そのものだ。伴田米穀店は、さらに色を重ねてゆくのだろうか。(敬称略)
愛着と誇りの回復へ
函館市弁天町にある伴田米穀店の外壁の「時層色環(じそうしきかん)」は、実に21層にも及んだ。塗りこまれた色の豊かさに、この色の環をこすりだした「元町倶楽部・函館の色彩文化を考える会」のメンバーの目は輝いた。
調査した函館市西部地区の木造建物85件の中でも、時層色環が10層を超えたのは22件だけ。伴田米穀店の21層は、国の重要文化財に指定(2004年)される遺愛学院本館(函館市杉並町、1908年建築)の19層を上回る。小さな民家ではあるけれど、いくたびもの「お色直し」をされて、街並みに彩りを添えてきたことが分かったのである。
「『街の色』の移り変わりから、街の過去の姿や人びとの思いが見えてくるはず」。そう考えて「考える会」がこの調査を始めたのは1988年。建物壁面の日陰で風雨の当たらない場所を探し、粗目の紙やすりで丁寧にこする。スポンジに含ませた水で濡らしながら下層へとこすり続け、木肌が見えたら終了。所要時間8分。目の細かい紙やすりで色模様を整形し、カラーチャートで色を特定してノートに記録する。
あたかも樹木の年輪のように同心円状に浮き出る見事な色の層は、ハケやバケツ、ハシゴや紙やすりを手に街を歩く「考える会」のメンバーを驚かせ、喜ばせた。
この年、函館市は西部地区を対象に建物の高さなどを規制し、保全すべき歴史的建造物を指定する「市西部地区歴史的景観条例」を制定した。街並み保存を求める市民運動に後押しされて行政も動き始めたのだが、これに逆行するかのように、地区では歴史的建造物の解体や文化財指定の解除が相次いだ。条例施行前には「駆け込み」的な高層マンションの建設が続き、景観の破壊やコミュニティーの分断などが社会問題化した。
こすりだし調査の背景には、こうした状況への危機感があった。「考える会」が1991年にまとめた『町並み色彩学Ⅰ-港町・函館における色彩文化の研究-』は、取り組みの意味をこう書いている。
「住民にとって、これ(前述の社会問題:筆者注)は耐え難いものであると同時に、自分達の町が実体の見えない大きな社会構造の変化の中で脅かされているという不安を感じさせるものであった。こういう社会状況の中で、我々の町並み色彩研究は、失われつつあった自分達の町に対する愛着と誇りを回復するためのものとして、外から押し寄せる開発の波に流されないよう自分達の町に対する認識を深める防具として、さらに変貌する町並みや建物をもう一度魅力的な環境としてつくりあげていくための武器として、市民的認知を得てきつつある」
五つの時代区分
デザイナー、クラフトマン、不動産業者、版画家など雑多な住民で組織した「考える会」は、市内外の研究者、企業・団体、学生などを巻き込みながら、1990年までの2年半で「こすりだし」調査やコンピューターグラフィックを使った街並みの色分析をおこなった。そしてその分析を踏まえて、1990~2012年に西部地区の建物45件の外壁のペンキ塗り替えの費用を助成した。
活動財源は、元町倶楽部が1974年に財団法人トヨタ財団の「第5回研究コンクール」で金賞を受けた際に授与された賞金100万円と活動助成金2000万円。これを銀行に信託して公益信託「函館色彩まちづくり基金」とし、運用益を助成金に充てたのだった。
25年におよぶ取り組みは、函館の「街の色」の変遷を明らかにしただけでなく、多くの市民や若者に「街と街並み」を見直し、それにかかわることの楽しさを伝えた。「考える会」の太田誠一さん(1952年生まれ)は「こすりだしでは、時代背景と色彩のつながりの深さにただ圧倒されるだけだった。活動を通して、建物に住む人の歴史が見えた」と振り返る。
「考える会」は、西部地区の「街の色」の変化を大きく五つの時期に分けた。第1期(明治後期から大正初期)は白を基調とし、第2期(大正半ばから昭和初期)は「多色」の時代。第3期(戦時中)は「戦時色」の時代。第4期(戦後、1982年まで)は「パステルカラー」、第5期(82年以降)は「塗り分け」の時代である。
第1期に塗られたペンキは輸入品が大半だったが、第1次世界大戦の特需で経済成長した第2期には国産ペンキの製造量が増えて色の自由な選択が可能になる。統制経済の下でペンキの入手が困難だった第3期にはイカの油も用いられた。戦時下の抑圧から解放された第4期以降、のびのびとした明るい色合いが広がっていく。
伴田米穀店の「時層色環」を見てもそれがわかる。建築間もない第2期には青みがかった灰色、クリーム色など、さまざまな色に2~3年おきに塗り替えられている。第3期にはこげ茶色や暗い黄緑色だったが、第4期以降は濃いアイボリー、黄緑調の白、クリーム色など、パステル調の明るい色から明るい色へと5~6年おきに塗り替えられた。
こすりだしの意味を掘り下げた『建築の彩時記-港町・函館こすり出し』(株式会社INAX、1990年)は、「ペンキは単に建物の維持と保全のための道具ではなく、自分たちの住む環境を美しく豊かなものにしたいという人々の意思と情熱の現れ」と記している。それぞれの時代に生きた人の心持ちをも表す時層色環。今なお伴田米穀店の壁に、銀河のように渦を巻く不思議なその模様を見ることができる。
灯りをともす
伴田米穀店の現当主、伴田次郎と妻紀子は1984年に外壁を濃いクリーム色から薄い緑色に塗り替えた。これには訳がある。
元町倶楽部による聞き取り調査によると、1916(大正5)年に建物を創建した新栄医院では、同じ新潟出身で函館の豪商・相馬家の令嬢を嫁に迎えた。その際、両家の友好の証に、新栄医院の外壁を相馬家の「相馬株式会社」の社屋(函館市大町、1916年築)と同じ薄い緑色にしたという。時を経て、伴田夫妻が建物を塗り替える際、市の要請もあり「時層色環」にある色の中から、現存する相馬株式会社社屋と同じこの色を選んだのだった。
2000年に現在の薄いピンク色に塗り替える際も、夫妻は「時層色環」にあった色と同じにした。こうして街に明るい色彩を添えてきた伴田米穀店は、次郎が創設メンバーの一人である弁天町のまちおこし団体「弁天ともしび会」の活動の拠点ともなってきた。「この建物を買ってから、人が集まるようになったんだ」と次郎は言う。
弁天町は函館港の入り口に位置する古くからの地域で、造船会社「函館どつく」(旧名称函館ドック)や北洋漁船の仕込み基地として栄えた。だが、昭和の造船不況や北洋漁業の衰退と終焉により、飲食店や商店は減り、軒先のネオンも、民家の灯りも減ってしまった。西部地区の他の町でも人口減は著しく、「100万ドルの夜景」と言われる函館山からの夜景の「足元」で灯火が減っている。
この夜景をいつまでも輝かせたい。そう願う一人の高校生のアイデアで1991年に始まったのが「函館夜景の日」。8を「や」と読み、13はトランプのキング(K=13)だとして8月13日を「夜景の日」と定め、同日8時13分、住民が一斉に函館山に向かって窓のカーテンを開け、灯火をかざすという人海戦術的なライトアップ運動である。実行委員会が2000年まで主催し、その後もライトアップは続いた。市民、企業、行政が一丸となって「人びとの思い」をともしたのだった。
「弁天ともしび会」もこれに加わった。伴田米穀店の奥の部屋で夜な夜な会議を開き、ふ頭の建物の壁に「ともしび」の電飾を取り付けたり、車のヘッドライトに色付きのセロハンを当て、銀色の幕に反射させて山頂へ光を放ったり。趣向を凝らして夜景を盛り上げたのだった。
そうして人びとが集う伴田米穀店を、次郎以上に気に入っているのが妻紀子である。アンティークな家具や建物が好き。「今も建物を買ってよかったと思う」と語る
チャージ(席料)なしで飲める場所が近場にあれば―と、店の正面を自前で改造し、バーにしたのは45歳のときだった。開店は午後8時と遅めにして、近所の年配者向けに2019年まで20年間、灯りをともした。
カウンターの6席と、2人掛けのテーブル四つ。「ご飯食べてから来なさいね」「おなかすいていたら、なんか買ってきてね」と、気さくな雰囲気。ジャズのライブも開いた。「この建物じゃなかったら、バーはやっていなかった」と紀子は懐かしそうに振り返る。(敬称略)